年間第26主日(B年)

 今日の福音は次のような始まりを聞かせてくれます。ヨハネがイエス様に言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエス様の時代には今のような病院も無かったので、病気は罪の結果や悪霊の呪いなどと考えていました。故にその時代には人々が悪霊を追い出すために色んな努力をするのは珍しくもなかったです。しかし、その中でもイエス様と一緒に歩む弟子達、特に悪霊を追い出す能力を授けられた使徒達の自負心はすごかったはずです。先生のお名前、主イエス・キリストの名によって人々を助ける事は自分達にしかできないと、知らない間に特権を持った意識に取り囲まれていたかも知れません。

 だから気に入らなかったのです。私達と一緒に歩んでいるのでもなくて、苦労もしていないのに、先生のお名前を名乗り、自分達と同じ立場に居ようとする事は認めたくなかったのです。そこで先生から言葉を頂き、自分達を認めて下さるよう、彼らは自分たち以外の人を認めないように期待して告げ口をしました。

 しかし、イエス様がお考えになった基準は異なりました。弟子達が望んでいる名誉の言葉は一言もありません。「やめさせてはならない。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。わたしの名を使ってわたしたちの悪口は言えまい。」 良い目的をもって行う彼らのことを応援しなさいと。


 今の時代も同じです。カトリック教会は神様の救いの計画について語るとき、「洗礼を受けた信徒のみ」と教えていません。その理由について、例えば、とても貧しい所に生まれて、生きてる間 神様について知ることすらできなかった人はどうなるのでしょう?この様な人は神様から造られた心、良心をもって愛情や仁義、あわれみなどで良いことを行いながら、神様の救いに参加することになります。洗礼を受けたか、受けていないかは基準ではないのです。たとえ違う宗教や信仰のない人でも私達の回りにはとても素敵ですばらしい人々は存在します。

 私の味方、私の家族、私と同じ所属の人などで分けるのではなく、もっと大きな意味で神様のみ旨を果たす人、お互いへの愛の実践を行うことが大切です。また、イエス様と共に歩んでいる私達はその模範になるために、愛の掟を守るために日々の努力を重ねる必要があります。イエス様は「やめさせてはならない。」と仰せになりました。教会だけではなく、近隣の皆さんを愛する、愛される一日を作りましょう。

(滋賀ブロック担当司牧者)