復活節第3主日 神父様説教

2021年4月18日
ヨハネ24,35-48

復活節第3主日の黙想

 滋賀ブロックの各小教区のミサが中止になりました。新たな新型コロナウイルス感染症の波が私たちに押し寄せようとしています。私たちは亡くなられた主イエスを偲び、泣きながら肩寄せ合って祈る主イエスの弟子たちのように、不安と混乱・葛藤の中で過ごしています。数日前までおられた師であるイエスを失ってしまった弟子たちと、約2000年間、毎週ごミサを奉げ続けたのにコロナによってミサを止めてしまった私たちの教会の姿が重なります。ミサがないのは師であるイエスを失ってしまった弟子たちと同じなのだと思います。


 そこへ、突然、主イエスが弟子たちの真ん中に現れて「あなたがたに平和があるように」と言われました。平和とは、神と私たちの和解であり、和解によって神が私たちと共にいてくださる状態を指します。主イエスの「あなたがたに平和があるように」という言葉はイエスが真ん中に立ってくださることによって実現しました。神であるイエス・キリストが御父と人との仲介者として真ん中に立ち、弟子たちと共にいてくださる状態、つまり「平和」をイエスが作り出してくださったのです。

 混乱のあまり呆然としている弟子たちにイエスは、冷静に自分を見つめること(手や足を見なさい)と、食事(焼いた魚を食べる)によって心の平安を取り戻させてくださいました。「手や足を見なさい」という言葉には黙想と祈りが、魚を食べる行為にはミサが象徴されています。不安や混乱・葛藤の中にいる私たちに、まず、イエスの言葉に気づき、イエスを見つめながら、黙想と祈りの中で平和へ招かれることを教えています。次に、焼いた魚を主と共に食べます。魚は聖書の中ではキリスト信者を意味しています。生ではなく焼かれた魚、神の愛(聖霊の炎)に焼かれて新しく生まれた、すなわち洗礼を受けた信者を表現しているのでしょう。この信者同士が自らを分け与え、互いに食べあう、つまり、愛の交わりであるミサへと福音は私たちを誘います。


 しかし、ミサはまだ私たちに与えられていません。今は、イエスの言葉による黙想と祈りに専念する時なのでしょう。黙想と祈りはキリストとの出会いを神の方から提供してくださる場です。神からの呼びかけに謙虚にこたえ、祈りの時間を持ちたいと思います。その黙想と祈りは、ミサへの準備でもあります。やがて人類が新型コロナウイルスに打ち勝った時に奉げられるミサでは、弟子たちがキリストと共に焼いた魚を食べた喜びと同じ歓喜が私たちに訪れるのでしょう。この喜びを味わうために、今は祈る。焼かれた魚を食べるように、信者さん同士が互いに許し、愛せるように祈りましょう。


 この後、私たちにはイエスの死と復活を告げ知らせる証人として生きることが求められます。第一朗読のペトロのように大胆にイエスを告げ知らせることができるようになるには、イエスとの交わりを深める必要があります。神に信頼することによって、何を語るのかは聖霊が教えてくださるという確信を得ることができるのでしょう。そのためにも祈りは欠かすことのできないキリスト者としての使命なのだと思います。祈る心が与えられるよう、聖霊に願いたいと思います。