年間第19主日(B年)神父様説教

第一朗読 列王記19・4−8でエリヤは、神の御使いから食べるように勧められて、

「この旅は長く、あなたには耐え難いからだ。」

エリヤは力付けられて四十日四十夜荒野で歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。


 福音朗読ヨハネ6・41ー51でイエスが言います。

「しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる物は死なない。私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私は与えるパンとは、世に生かすための私の肉のことである。」

 何主日前から、イエスは自分が永遠の命を与えるパンであると言っています。この世に力を与えるだけでなく、この世を生かすのである。それを食べる人は永遠に生きる。

 でもね、誰でも洗礼の水を頭に流されて、ミサに出て御聖体を受けると永遠の命をもらえることではない。そのパン種なしのホスチアは十字架上で人類のため命を捧げたイエスのいけにえの記念である。イエスそのものであることを信じる。ミサの尊さを感じる。今の状況でミサって、社会的に、人の集まりである、したがって危険である事をメインに考えてしまう。その一般的な価値観は、カトリック信者にどう響くのでしょうか。

 ミサ中止するのは納得が得られる。ミサ再開するのは納得を得られない、もめごとになる。これこそ信徒の価値観を示すしるしであると思います。

 イエスが私達を救うためにご自分の命を十字架上でお捧げになりました。パンの形で私たちの間で残って下さいました。私たちはいつもそのパンを求められるように。

(滋賀ブロック担当司祭)