年間第15主日(B年)神父様説教

マルコ6:7-13

 「宗教って、お金かかんのとちゃうの?」と世間の人たちは思っているようです。その質問に「No」と答えるのが今日の福音です。イエスは杖一本をもって宣教に行くように勧めました。杖1本、杖は神の権威の象徴ですから、一つの神の権威のみを携えて、他の物は何も持たずに旅をするのです。袋は食料を入れる物です。食料を確保して宣教しません。食べ物も何もかも必要な物は神様が必ず備えてくださるという信仰をもって臨みなさいという大切なお言葉をいただきました。

 一つの家にとどまるのも、使徒に対して様々なサービスを人々からうけ、そのサービスが過剰にならないように、一つの家にとどまるのです。家から家へと渡り歩くと、家の主人たちは前の家の主人に負けないようにという競争心が生まれるでしょう。そういう事は信じることの妨げになるかもしれません。まるで宣教師をもてなすことが教会に奉仕することと勘違いしてしまうかもしれません。私たちの奉仕はあくまでも神への奉仕であり、宣教師への奉仕ではありません。

 もし、宣教がうまくいかなくても落胆することはない。足の塵を払い落とすからです。人に聞き入れられなくても、それは聞き入れない人の問題で宣教する人に責任はないということを表すために、足の塵を払い落とします。あくまでも、その人と神との関係なのです。


 私たちの宗教は、この世の富を得るのが目的ではありません。この世の富を求める宗教に対抗して貧しさという武器で戦います。イエスは当時のファリサイ派や宗教者たちを意識して、貧しい人が神の福音を伝えることを望みました。人間の望みを充足させるのではなく、ただ神の望みを叶えることだけを願う姿勢が求められています。神の望みとは、神の国と悔い改めて福音(良い知らせ、幸せと言っても良い)を信じることです。これだけを求めるので他の物は一切、必要ないと心から思い、実践している人が悪霊を追い出し、人々を悔い改めに導くのでしょう。1人では難しい。だから2人組で宣教するように福音は促しています。お互いに助け合い、励まし合い、時には諫め合いながら私たちは宣教の旅路を歩んでいくのです。


 もう一つ、今日の福音で大事なポイントは、最後の『油を塗って多くの病人をいやした』という御言葉です。これは、現在の病者の塗油の原型となる箇所です。病者の塗油は天国へ向かう力をいただくだけではなく、本来は病気を神に秘跡的に、いやしていただくためのものです。コロナ禍で病者の塗油を執行するのが難しい状況ではありますが、必要な方がおられましたら、ぜひ、司祭に相談してください。何とか方法を模索して病者の塗油に与れるよう、神に祈ります。

(滋賀ブロック司牧者チーム)