三位一体の主日(B年) 

マタイ28:16-20

 コロナ禍の教会は、霊的なケアのため教会を開けるのか、それとも感染のリスクを考えて閉じるのか、こんな議論が私たちの周りに展開されています。考え方も人それぞれで教会全体に「分断」という言葉が響き渡っています。対立ではなく分断という言葉は強烈なインパクトを感じます。以前なら、このような意見の違いは多様性のある教会として受け入れられたでしょう。教会が対立を多様性や豊かさとして歓迎してこられたのは、互いの立場を理解して受け入れていたからでしょう。しかし、教会で日曜日にミサをするかしないかは早急に結果を求められ、集まることもできないので議論に参加できず、悶々としている人がたくさんいます。こんな状態が続けば信者さんは疑心暗鬼になり、教会から離れてしまったり、不信が襲ってきたりするかもしれません。

それでも、今日の福音は教会が洗礼を授け、互いに愛し合うことを力強く宣言しています。洗礼を受けるとは、神の恵みによって善を選択する生き方を神と人々の前で言い表し、その助けを神と人々に求める続けることです。また、イエスの命じたことはイエスのように互いに愛し合う事でした。今の教会はどうでしょうか? イエスの命令の通り、自分たちの考えられる最高の善を選び、互いにいたわり合い、尊重し合い、自らを相手に与えているでしょうか。今こそ私たちは互いの交わりを今までとは違うやり方で工夫しながら求められているのではないでしょうか。また、自粛で教会の人と会えないのなら、一緒にいる家族や学校、職場の人たちにキリストの愛を伝えていけるチャンスを私たちは与えられているのかもしれません。常に善を選択する生き方は非常時にこそ大事にしてほしいと思います。

三位一体は愛の交わりそのものです。私たちは洗礼によってすでに三位の愛の交わりの中に置いてくださっていると信じます。そして、三位の交わりの中にいる私だからこそ、神が与えてくださるあなたの微笑みによって周りの人たちを救うのだと思います。

(滋賀ブロック担当司牧者)