4月5日 Message from Fr.Kim

枝の主日(マタイ26・14~27・66)

今日はイエス・キリストが過越の神秘を完成するためにエルサレムに入城されたことを記念して、主の受難を荘厳に予告する受難の主日です。今日から1週間の間、私たちを救うために来られたイエス様の受難と復活を記念している典礼が集中されています。が。。コロナウィルスの影響で典礼が中止になりました。本当に寂しいです。こんなことは司祭になって、また信者になって初めてのことなので。。。大変ですが聖週間を頑張って過ごしてほしいです。

イエス様は当時一番ひどい刑罰である十字架上でお亡くなりになられました。

本来、十字架というのは虜や奴隷たちに恐怖を与え脱出したり、犯罪を犯したり、することを防ぐために考案した死刑の道具でした。したがって、十字架は最も悲惨な死の象徴であって呪いの対象でありました。しかし、イエス様が十字架で亡くなられたな後には、その意味が全然反対になりました。 イエス様のおかげで十字架は救いの象徴、勝利のシンボル、栄光のシンボル、祝福の象徴となりました。だから聖堂の鐘楼の上にも祭壇の上にも信者さんの部屋の壁にも十字架がかかっていて、信者たちの胸には、もちろん未信者の芸能人たちの首にもかかっているアクセサリーの十字架もよく見ることができます。そして、司祭たちは、祝福をしたり、家や物を祝別するときにも十字架をしるしをします。私たちは、食事の前後にも、祈りの前後にも、仕事の前後にも、運転の前後にも、十字架のしるしをする姿を見ることができます。このように、イエス様の死以降に十字架の意味が変わりましたが、すべての十字架の意味が変わったわけではないと思います。イエス様が亡くなられた同じ日、同じ十字架を背負って、同じ道を歩いて、同じ場所で十字架刑を受けた人は、三人だったが、この3人の十字架の意味は異なります。イエス様は十字架を通して自分の使命を成し遂げて人類を救い、栄光な復活と昇天されて父の右にすわられたことに比べて、イエス様の右側でつけられた囚人は、わずか自己一人だけが得するためにとどまり、イエスの左側につけられた囚人は自分自身さえ考えてなかったです。イエス様は十字架の死を通して神様に従順と人類の赦しと愛がどのように大きいのかを証明したことに対し、右の囚人は自分の誤りの対価として受けるようにされた十字架を当然のことと純粋に受け入れながら、イエス様に自分を完全に委ねましたが、左の囚人は自分の過ちのことになった十字架を拒否し、罪のないイエス様まで嘲笑を浴びせ死んて行った彼の十字架が何の意味があるだろうか?イエス様が大きくて重い十字架を背負って行かれたように、私たちも毎日重さと色が異なる十字架を見つけて、それらを胸に抱いて行かなければなりません。イエス様のような意向と姿勢で十字架を受け入れるなら、他の人々を救うことになります。もし、右の囚人のように肯定的に受け入れるなら人には役立つことができないかもしれませんが、自分だけは救うことができると思います。しかし、左の囚人のように、自分の十字架を拒否し足搔くなら、そのもったいない十字架が滅亡の道具になるしかないと思います。

皆さん、これから私たちはどのような意向と姿勢で十字架を迎えたらいいでしょうか?黙想しながら良い聖週間を過ごしてください。